践祚(せんそ)・・・天子の位を受け継ぐこと。
御浜出(おはまで)・・・船形の祭礼行事の一つ。 船形の浜に各山車・屋台を下ろして、ひっぱると言うもの。
本地垂迹(ほんちすいじゃく)・・・仏教が興隆した時代に表れた神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考え。
八幡神(はちまんしん、やはたのかみ)・・・日本独自で信仰される神。
本地仏(ほんじぶつ)・・・神の正体とされる仏のこと。
平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)・・・京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院。平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、"古都京都の文化財"の一部として世界遺産に登録されている。
白河上皇(しらかわじょうこう)天喜元年6月19日(1053年7月7日)〜大治4年7月7日(1129年7月24日))・・・第72代の天皇。在位は延久4年12月8日(1073年1月18日)〜応徳3年11月26日(1087年1月5日)。
院政(いんせい)・・・在位する天皇の直系尊属である太上天皇(上皇)が、天皇に代わって政務を直接行う形態の政治。
平治の乱(へいじのらん)・・・1159(平治元)年12月に、後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びついて勃発。平清盛が熊野詣で京を留守している間に、藤原信頼と源義朝を中心として起こされたクーデターが端緒。激しい合戦の末に数に勝る平家方が勝利。信頼は仁和寺に逃げ込むも即刻斬首。義朝も逃亡先の尾張で討ち取られた。
壇ノ浦の戦(だんのうらのたたかい)・・・1185年3月24日,壇ノ浦(山口県下関市)の海上で行われた源氏・平氏の最後の戦い。平氏は源義経の軍と決戦したがやぶれ,安徳天皇をはじめ一門の多くは海中に身を投げて滅亡した。
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)・・・元来は東方の「蛮族」を征討することを任とする大和朝廷の役職。権限の大きさから臨時にしか置かれなかった。やがて武家の棟梁の称号とみなされるようになり、源頼朝の鎌倉幕府の頃より、武家政権の為政者としての意味を持つようになる。
応仁の乱(おうにんのらん)・・・足利将軍の跡目相続を巡って京都で行われた戦いのこと。これが室町幕府衰退の理由となり、戦国時代の幕が開いた。
織田信長(おだのぶなが)・・・安土桃山時代の武将。織田信秀の嫡男。桶狭間の戦いで今川義元を破ると、三河(愛知県東部)の徳川家康と同盟した。美濃(岐阜県)の斎藤龍興を破り、1568年足利義昭を擁して上洛。これにより織田信長は事実上天下を握る。その後、浅井長政・朝倉義景や武田勝頼らを滅ぼし一向宗と激しく争うなど、勢力拡大を実現していった。中国の毛利氏征伐に向かう途中、本能寺で家臣の明智光秀に襲われ,嫡男織田信忠ともに自害した。
御浜出(おはまで)・・・船形の祭礼行事の一つ。 船形の浜に各山車・屋台を下ろして、ひっぱると言うもの。
本地垂迹(ほんちすいじゃく)・・・仏教が興隆した時代に表れた神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考え。
八幡神(はちまんしん、やはたのかみ)・・・日本独自で信仰される神。
本地仏(ほんじぶつ)・・・神の正体とされる仏のこと。
平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)・・・京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院。平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、"古都京都の文化財"の一部として世界遺産に登録されている。
白河上皇(しらかわじょうこう)天喜元年6月19日(1053年7月7日)〜大治4年7月7日(1129年7月24日))・・・第72代の天皇。在位は延久4年12月8日(1073年1月18日)〜応徳3年11月26日(1087年1月5日)。
院政(いんせい)・・・在位する天皇の直系尊属である太上天皇(上皇)が、天皇に代わって政務を直接行う形態の政治。
平治の乱(へいじのらん)・・・1159(平治元)年12月に、後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びついて勃発。平清盛が熊野詣で京を留守している間に、藤原信頼と源義朝を中心として起こされたクーデターが端緒。激しい合戦の末に数に勝る平家方が勝利。信頼は仁和寺に逃げ込むも即刻斬首。義朝も逃亡先の尾張で討ち取られた。
壇ノ浦の戦(だんのうらのたたかい)・・・1185年3月24日,壇ノ浦(山口県下関市)の海上で行われた源氏・平氏の最後の戦い。平氏は源義経の軍と決戦したがやぶれ,安徳天皇をはじめ一門の多くは海中に身を投げて滅亡した。
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)・・・元来は東方の「蛮族」を征討することを任とする大和朝廷の役職。権限の大きさから臨時にしか置かれなかった。やがて武家の棟梁の称号とみなされるようになり、源頼朝の鎌倉幕府の頃より、武家政権の為政者としての意味を持つようになる。
応仁の乱(おうにんのらん)・・・足利将軍の跡目相続を巡って京都で行われた戦いのこと。これが室町幕府衰退の理由となり、戦国時代の幕が開いた。
織田信長(おだのぶなが)・・・安土桃山時代の武将。織田信秀の嫡男。桶狭間の戦いで今川義元を破ると、三河(愛知県東部)の徳川家康と同盟した。美濃(岐阜県)の斎藤龍興を破り、1568年足利義昭を擁して上洛。これにより織田信長は事実上天下を握る。その後、浅井長政・朝倉義景や武田勝頼らを滅ぼし一向宗と激しく争うなど、勢力拡大を実現していった。中国の毛利氏征伐に向かう途中、本能寺で家臣の明智光秀に襲われ,嫡男織田信忠ともに自害した。
次へ
戻る